“秋の錦景”
この秋は随分と駆け足でやってきた感があって、
あまりの前倒しから途中で平年並みに戻っただけでも
何だなんだとびっくりするほどの乱高下にも見舞われて。
「だよねぇ。
先週なんて、月の頭こそとんでもなく寒かったのに。」
「そうそう。
週末からこっちは、嘘みたいに気温も上がったものねぇ。」
何か作業でもするのなら、
半袖でもいいんじゃないかってほど、
都内でも20℃に至ったんじゃないかってほどの暖かさがぶり返し。
街へと繰り出してた皆さん、
帰りは冷えるかもと持ってきた上着で手が塞がれて不便そうだった。
そんなインディアンサマーも長続きはしないか、
はっきりしないお天気が拭われるとともに、
秋晴れの下に冷たい風が吹いて。
今日はいわゆる平年並みの、秋らしいお日和となったようで。
「ちょっと寒いけど、いいお天気になってよかったねぇ。」
「うん。陽だまりにいる分には体も温まるだろし。」
季節の深まりと共に、
山間の古跡やそれを取り囲む景色が
木々の織りなす赤や黄色の錦に飾られ。
それが澄み渡った空気の中、それはそれは鮮やかに冴え映えて綺麗。
そういった溜息が洩れそうな秋の景色の特集の中、
写真家の方々が朝日や夕景の写真を撮りにと
寒い中を湖のほとりなぞで待ち構えておいでの様子なぞ、
六畳間へ出したばかりのこたつに入って
仲良くテレビで観ていた我らが最聖のお二人も、
自身の中の美的感覚をくすぐられてしまわれたものか。
私たちも何か、芸術の秋っぽいことをやってみようかと話がまとまり。
写真もいいけどどうせなら、
ブッダの職業柄(…) あれこれ揃っている画材を手に、
見事な彩りを写すスケッチに出かけないかということに相なって。
秋の並木と言えば…というような“名所”に出かけるのもいいが、
『ご近所にも銀杏やポプラの見事なところは結構あるよ?』
毎日のジョギングやお買い物の道なり、
ちゃんと周囲へも目を配り、季節の移ろいも堪能している釈迦牟尼様が
そっちだって捨てたものではないよと提案したけれど。
イエスが口周りのお髭ごと、表情豊かな口許をすぼめて見せると、
でもなぁ、そういうところってご近所の方も通りすがらない?
あ・そっか、それはちょっと照れちゃうねぇ、と
相変わらず、神や仏にしては随分と人間臭い理由から、
場所の選定にああでもないこうでもないと半日かけてから選び出したのが、
いつもの植物園の中にある遊歩道。
「わあ、綺麗だvv」
ここなら買い物帰りの顔見知りの奥さんや学校帰りの小学生は通るまいし、
同じようにスケッチをなさっておいでの顔ぶれも多数いるので
目立つこともないまま、気兼ねなく写生に取り組める。
そんな算段で選んだのは
園内のエリアをつなぐ遊歩道の内の一つ、
秋の路樹が道の両側に色づいて居並ぶ、コスモス畑への道というところ。
結構長い道の左右に並び立つ銀杏の色づきも見事だし、
そんな黄色いトンネルの向こうには、
緑の原っぱの向こう、楓や辛夷といった別の木々による赤や茶色の錦が望めて、
様々な風景をチョイスできる贅沢な場所でもあり。
二人がやってきたのは午前中だったにもかかわらず、
早起きな素人画家の皆さんが 既にあちこちに散らばって創作中で。
シートを敷いての座って長丁場を思わせるお人もいたり、
イーゼル立てて本格的に描いていたりもし。
「じっとしている分には暖かそうだよ。」
朗らかにお顔をほころばせ、イエスが嬉しそうに辺りを見回す。
曇天が多かったのが久々の晴れ間、
明るい日差しは確かに暖かそうでもあるし、
吐息が白くけぶるような寒さでもないけれど、
「でもね、気温自体は低いから。」
これが秋の初めや春の同じ気温のころならともかく、
時折銀杏の梢を揺すぶるほどの風もあるようなので、
じっとしていると却って冷えること請け合い。
そんな場所だろうという予測をした以上、用心するにしくはなく。
風邪ひかなきゃいいってものじゃないでしょと、
Tシャツの上にネルのシャツを重ね、
それからジャケットという防寒をイエスへも指導したブッダ。
ボトムの方も、日頃のブルージーンズではなく、
少し厚手のワークパンツ、カッコ竜二さんの伝手で安く買えたのカッコ閉じる、を
揃って履いていて、靴下もやや冬物という完璧な装備っぷり。
身動きが窮屈なほどではなしと、特に異論もないままに、
他の皆さんの邪魔にならないよう、
早速あちこちをたったかと歩き回って、描きたい構図のポジションを探し、
「あ、私は此処がいい。」
脇にスケッチブックを挟みこみ、
両手の人差し指と親指とで四角いフレームを作って…なんていう
画家と言えばの 一丁前な仕草にて、
並木のトンネルを綺麗に見通せる位置に立ち止まり。
一応後背も見直して、通行の邪魔にならぬかを確かめてから、
背後にあった木の幹へ軽く凭れる格好、
イエスがまずはスケッチブックを開いて見せる。
外でのスケッチということであんまりガサガサ持ってっても何だしと、
鉛筆とそれから、色を付けるのにはパステルを使おっかと、
筆や水は使わない画材を選んできた二人。
「じゃあ、これも渡しておくね。」
肩から提げていた大きめのトートバッグから、
ファスナーで3方向を閉じる格好のソフトケースに入ったパステルセット、
ヨシュア画伯へとブッダがにっこり笑って差し出した。
その笑顔に添えられた真っ直ぐな眼差しに“頑張ってね”というエールを察したか、
茨の冠に蕾が出そうな意気込みで、ロン毛の君がしっかと頷く。
「うん、頑張るよ。」
それは真剣なお顔で深々と頷いたイエスだったれど、
“興味のあることへの集中は 結構 保つから心配は要らないかな。”
実のところ…ブッダとしては、
飽いたら言ってねというレベルの励ましを送ったらしく。
というのも 彼の場合、様々な苦難艱難に襲われたのを乗り越えた人には違いないけれど、
ブッダのように苦行として自分から求めたのではなく、
彼に言わせりゃ、勝手に向こうからやって来たものばかりだったそうで。
苦境にある人を救いに行ったときにしたって、
現場が湖の上だった不運と、
船酔い体質なのとの兼ね合いから苦行もどきになりかかったのを、
こうなったらと神通力を発揮し、
水上歩行という奇跡を起こした…というのが正直な順番だったそうだし。(う〜ん)
日頃のイエスはと言えば、
絵のモデルをしてくれた時も ほんの10分で体が強張ってきたと
我慢が利かなくなったお人なの、重々知っているブッダとしては。
風景画なのでスケブに十字を切るということはしないだろうから、
しまった思わぬ奇跡が起きたと慌てたり焦ったりすることもないだろなと。
そこまでを先読みし、大丈夫大丈夫と安堵したうえで、
今度は自分の創作ポジションを探しに、
彼から少し離れる格好、爽やかな遊歩道を歩き出す。
“本当にいいお天気だけど。”
日向ぼっこをするには、乾いた風が少し冷たくて。
多少温まってもすぐさまそれを奪ってゆく仕儀なのが、
意思なぞないはずの自然の仕業だというに、素っ気ないという以上の無情さを感じさせ。
色づいた銀杏の梢がやはり乾いた音を立て
しきりと ざわざわカサカサと囁くのが
それもまた秋の秋たる物寂しい雰囲気を醸し出す。
光の眷属という生まれのイエスと違い、
元は人間から解脱した聖人であるブッダとしては、
こういった風情から何かを感じ入る“感傷”というものにも馴染みは深く。
スケッチをしに来たというのに、それをうっかり忘れてしまったほど、
周囲を埋めるよに居並ぶ木々の織りなす、錦のような色彩の妙へ、
すっかりと心奪われてしまったのでもあり。
“寂寥感というものか。”
設置されて長いのか、少し擦り切れたようになっている遊歩道の石畳も、
この景色の中ではいい味を出しており。
銀杏並木の出口近くにはポプラとそれから、
近づいて判る小さめの楓が大小植わっていて。
透け感のある傘みたいに枝垂れる、楓の様々な茜色が何とも可憐。
その向こうには、
少し前までは可憐な花が敷物のように広がっていたのだろう、コスモスの広場が望め。
そしてそのまた向こうには、
小高い丘を覆う赤や褐色の紅葉が、まだ少し居残る緑と絶妙に入り交じり、
ややか弱い秋の陽光の下、得も言われぬ色彩の綾を呈していて麗しく。
「…それはいいとして。」
パンフレットにもあったように、
秋の趣を存分に堪能できる錦景には文句なぞないが、
コスモスの畑を渡り、この並木の入り口付近にまで、
時折吹き付ける風というやつが、
何だかどうにも、不自然というか不規則が過ぎることに気がついて。
どんっと勢いよく吹き込んできて、
平和にスケッチを楽しむ人々を震え上がらせているというような
性根の悪い有害さはまったくないが、
「あらら。」
「風のせいかしらね。」
例えば銀杏の鮮やかな黄色の葉っぱたちが
足元に敷き詰められる格好で絨毯みたいになっていたものが、
吹き来る風にあおられて、右へ寄ったり左へ寄ったり、
何だかころころと頻繁にその配置を変えており。
そうかと思えば、頭上へ両側から腕を伸べるよに張り出している梢たちも、
風に押されてか木洩れ日が落ちる位置があっちへ行ったりこっちへ寄ったり。
何ともせわしなく景色が変わるのへ、
居合わせた素人画家の皆さんが
“ありゃまあ、今日は何だか妙ねぇ”と苦笑をなさっているのが聞こえ。
≪…一体何の悪ふざけですか、梵天さん。≫
姿は見えねど、気配とそれから、
こんな人知を超えた手配りなんぞがこなせる存在といやぁと、
すぐさまピンと来たらしきブッダ様。
どうやら姿を隠しての所業らしいことと、
こんな不思議に縁があると思われても何なのでと
心の中での伝心声にて、心当たりへ呼びかけたところ、
≪おお、これはよく気がつきましたね。≫
やはりというか、白々しい言い回しで、
こちらの手腕を褒めるような言いようをする声が返ってきたが。
それさえも釈迦牟尼様にはかっち〜んと来たらしく。
≪ぬあにが よく気がつきましたね、ですか。≫
それでなくともこの天部へは妙にアンテナが鋭くなっている如来様。
自分を極端なプロデュースで微妙な風貌へと改造したことやら、
過分な試練をおっつける傾向がいまだに消えないことやらは、
まま慣れたからしょうがないと流せもするが。
≪何をそんな、年端のいかぬ童レベルの ちょっかい掛けをしていますか。≫
もしかして、これからスケッチを始めようという私への
ある意味、苦行のつもりの嫌がらせでしょうかと。
真っ直ぐに座った双眸も冷然と、
傍目から見るといきなり瞑想にはいられた修行僧のような
厳然硬化、微妙に近寄りがたい様相になられたブッダが問いかける。
そう、この遊歩道に不自然で悪戯な風を仕掛け、
美しい景色をスケッチしてなさる皆様の邪魔をしているとしか思えない所業であり。
この自分への試練のつもりか、だとしても場所を選びなさいと、
諫めるように言い放ったところ、
≪まだまだ青いところがありますね、シッダールタ。
何でも受け流すような諦念を身につけてしまわれず、
自身の伸びしろがまだあるというのは悪いことではありませぬが、
人を導く開祖として、頑迷なのは如何なものか。≫
やれやれと頭を振る仕草が目に見えるような言い回しを返されて、
静かに瞑想にふけっているよなお顔だったものが、
「…っ 」
その眉間へぴききっと深いしわが刻まれて、
今しも吹き付けんとしかかっていた風が、
何に当たったか、吹き来た方へ倍の強さで押し返される。
それのみならず、
≪おおう…っ!≫
何処に潜んでおられたのかも、実は察知済みだったのか、
押しの強い天界最強の天部様をも、
その突風にてどんと力任せに舞い上げてしまわれ、
どこぞの蒼穹へか追い払うべく、吹き飛ばしたらしいブッダだったようで。
「…ブッダ、今 物凄ぉい神通力使わなかったかい?」
今度のは強い風だったねぇと、
イーゼルが倒れないよう押さえたり、
画材が飛ばぬよう筆を止めて身構えてしまったりという人々の間を
ひょこひょことやって来たイエス。
さすがに同じ聖人同士、こちらには思い当たりが重々あったらしい不思議な力の大元、
神通力というものを発揮したらしいご当人へとこそりと耳打ちしてみたところ。
「え? 何のお話?」
それこそ途轍もなくありがたいお話を説いてる時のように、
輝かんばかりの笑顔になって振り向いてきた釈迦牟尼様だったので、
「……そんなまで晴れやかな顔するほど、すっきりしたんだねぇ。」
イエスにすれば、飛ばされてから気がついた天部様の同座であり。
どんな厄介払いとなったのか、
事の運びが一向に判らないイエスへ、何も全部を語る必要はなしと、
誤魔化すつもりというよりも、何の杞憂も要らないないというのを強調したくてのこと。
このまま頭上の蒼穹が
清浄な天界へまで一気にぶち抜かれるんじゃあなかろうかというほどもの
豪快で力強い笑顔を見せたブッダだったのへ、
“何をやらかして怒らせた梵天さんだったのやら。”
相変わらずな彼らの相性へ、やれやれと小さく苦笑したイエス様だったれど。
まさかまさか、
その手に抱えたスケッチブックの中、
少々ずれて描かれる風景に合わせる格好で、
景色の方がころころと塗り替わっていただなんて
まったくもって気づいてはいなかった
そういうところも無邪気で素直なヨシュア様なようでもあって。
「さあ、スケッチを続けようよvv」
私はここから見えるあの丘を描くよ、
じゃあ、私も…そうだこの楓を描こうと、
結局はすぐお隣に並ぶ格好で、
ちょっぴり寂しげな、でも、愛しい人と一緒ならそれもまたしみじみ味わえる風景を
手元へ写すスケッチに没頭することになさった最聖のお二人で。
本人たちや周辺の方々の所業で、すったもんだになるのは相変わらずだが、
それでも動じないところが、
森羅万象、自然の大きな在りようなのだなと。
静かな眼差しで一つ一つを愛でるよに、
秋の香りに匂い立つ木々を見回したブッダ様だったようでございます。
〜Fine〜 15.11.13.
*あ、13日の金曜日だ。(気がつかなんだ)
それはともかく。
ちょっとした遠出をすれば、
天界の存在が 案じてか見に来るから困ったもので。
つか、ブッダには試練を持ち込み、イエスへは過保護を惜しまぬ梵天さんが、
ウチではいよいよデフォになってきたような…。
「そうですか、焼きもちですか、シッダールタ。」
「……っ 」
前倒しもいいとこな雪起こしの雷鳴が
立川の住宅街にて轟きませんように…。
めーるふぉーむvv
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